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    百万人の音楽と千人の音楽--いま、クラシック音楽はどうなっているのか--

    配信日: | 配信テーマ:クラシック

     「百万人の音楽」という番組が、かつて東京のTBSラジオで、週に一回、日曜の夜に放送されていました。芥川也寸志と野際陽子のコンビが、さまざまなゲストを招いて、クラシック音楽の魅力を語り尽くしてゆく。芥川の会話術の魅力が際立つ、何十年も続いた長寿番組でした。わたくしも毎週かじりついて聴いていました。
     番組名は、おそらくイギリスの科学啓蒙家、ランスロット・ホグベンの「百万人の数学」に由来していたのではないでしょうか。原題は「マセマティックス・フォー・ザ・ミリオン」。この場合のミリオンは、もちろん百万ピッタリということではありません。億万長者の億万みたいなものです。たくさんの、大勢の、みんなの、といった意味です。それが1940年前後に日本で初訳されたとき、直訳で「百万人の数学」とされたのでした。

     これがあたりました。語呂がよかったのでしょう。戦中・戦後を通じたロングセラーになりました。今でも古本屋さんでときおり売っています。
     たぶんそのせいで、戦後の日本には、「百万人の××」という、番組名や書名やキャッチ・コピーが氾濫しました。百万人の英会話とか、百万人の護身術とか、百万人の原子力とか……。国民多数に行き渡らせたいものに、なんでも百万人と付けたのです。「百万人の音楽」なるタイトルにも、誰しもみんなにクラシック音楽に親しんでもらいたいという、番組制作者やスポンサーの熱意がこめられていたのでしょう。

     それから歳月がたちました。今、クラシック音楽はどうなっているでしょうか。CDの売り上げが落ち込む。演奏会の客入りが芳しくない。音楽配信ビジネスもクラシックに関してはまだまだ。国や大企業の援助も減る一方。音楽学校の経営もたいへんだ。そういう話をよく聴きます。
     すると、クラシックを百万人の音楽にしようとする夢は、しぼみつつあるのでしょうか。情報のとりよう、判断のしようで、いかようにも結論の出せる難しい問題ですけれど、少なくとも私は、むしろクラシック音楽はかつてないほど日本で親しまれているのではないかと実感しています。熱心なファンが増えているように思えます。
     ただ、そのファンの質が、クラシック音楽産業というか事業者が、長年前提とし、常識としてきた質と、甚だしく食い違ってきているのではないでしょうか。

     クラシック音楽は昔よりもずっとみんなのものになっている。けれど、そのみんなとは、たとえばカラヤンとか、フルトヴェングラーとか、マリア・カラスとか、スカラ座とか、ウィーン・フィルとか、ベルリン・フィルとか、ベートーヴェンとか、大きな看板にはもはや集約されない。クラシック音楽ファンが百万人居たとしても、ひとつの商品がミリオン・セラーになることはありえない。百万人が、百人や千人の規模の、無数の小集団に分化してしまっているのです。

     したがって、ひとつの品物、ひとりの演奏家、特定の曲目に、宣伝・広告費をまとめて投じ、新聞や雑誌や放送で露出を増やせば、みんなが付和雷同して、上がりが出てくる型のビジネス・モデルは崩れざるをえません。ファンの趣味は、古楽が好き、ピアノが好き、ショパンが好き、北欧音楽が好き、合唱が好き、というふうに、細かく割れて深化している。それぞれの好みに集約的にお金と時間を使う。それでも余力があったらよそに行く。初心者だって、広く浅く、とはかぎらない。クラシック音楽ファンとは、周囲の友人・知人の導きによって誕生することが多いでしょうし、ファンが専門分化する傾向にあるとすれば、その導きに頼る初心者もいきなり専門分化するのではないかと、容易に想像されます。
     そういう人たち全部に網をかけようとしてもしようがない。初心者は必ず従来の名曲入門的なところから、あるいは誰もが安心出来るブランドから、入ってくるはずだとの思い込みが、失敗のもとなのです。

     ところが、クラシック音楽の事業の仕方は、少なくとも日本ではまだまだ昔の夢を追って居るように見えます。何が売れ線か、あるいは権威かを考え、そこにお金をかけ、まとまった人気・反響・利益を引き出そうとする。それがあまりにうまく行かないので、「クラシック市場も冷えきってきた、たいへんだ、明日がない」と思い込んでゆく。
     間違っていると思います。繰り返して言いますが、ファンはかつてないほど大勢いるのではないでしょうか。ただ、大勢が大口にならないのです。大勢が数多の小口に分かれているのです。かなり成熟して、それぞれの好みが深まっているから、簡単に付和雷同しません。したがって、お金や人手をかけ、ひとつのものをたくさん売ろうとしても、ごくたまにしかうまく行きません。なるべくお金も人手もかけずに多品種少量生産に徹していかなくては、生き残れない。ハイ・コストでハイ・リターンではない。ロウ・コストでロウ・リターンをまめまめしくやって、まあまあ生きられるくらいのしのぎが出ればいい。図体のでかいものは生き残れない。大勢でつるみ所帯を大きくして同じ事をしていては共倒れになる。その代わり図体の小さいものには楽しくてしようがない。そんな時代になってきているのではないでしょうか。

     たとえばCDが売れないというけれど、それは主に国内レコード会社の正規盤の売り上げ統計から言われていることで、輸入盤や中古盤の市場までまとめて考えれば、クラシック音楽のソフトが今ほど多種多量に氾濫し、ヴァラエティに富みすぎた品物の各々に、それぞれそれなりのお客さんがついている時代はかつて決してなかったと、断言できます。

     クラシック音楽が百万人の音楽になる。そんな夢のまた夢と思われた時代が実はやってきているのではないでしょうか。そうでなかったら、「ラ・フォル・ジュルネ」や「のだめカンタービレ」の人気なんてありえるでしょうか。新国立劇場があれだけオペラを上演し、何だかんだいっても、いつもけっこうお客さんがいる情況を、どう説明すればよいのでしょうか。
     ただし、その百万人の音楽は、一枚岩の百万人の音楽ではない。千人の町が千できているような、もしかして百人の村が万できているような、千枚岩・万枚岩の百万人の音楽なのです。世の中はそこまで来てしまっている。それなのに、音楽産業にそれに見合った構造改革ができていない。十万人×十か一万人×百くらいのつもりでしかやれていない。寸法尺度が合っていません。目の粗い網で小魚を捕ろうとしているようなものです。だから話が暗くなる。時代のニーズに合わせて事業を深化させるよりも、時代のニーズを追い切れず事業を縮小させようという話が目立ってしまう。明るく生きられるように、もっと知恵を絞りましょう。

    2010年5月10日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:片山杜秀

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