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    <新・コンサートを読む>白井とヘルの《女の愛と生涯》=梅津時比古

    配信日: | 配信テーマ:クラシック

     ◇現代の視点で批判しない

     「女性の鑑(かがみ)」という慣用句は死語に近い。口にするだけで、古い、女性蔑視、と笑われそうだ。かつてはこの言葉は崇高な響きを伴っていた。「女性の鑑」を主題に据えた物語、詩、伝記は数々ある。

     シューマンの歌曲集《女の愛と生涯》のテクストであるシャミッソーの詩にも、「女性の鑑」の典型が見られる。一人の男性に尽くし切る、男性にとっての理想像が描かれており、現代では居心地の悪さを感じる人も多いだろう。そのせいか、アナクロニズムを浮かび上がらせるために男性が歌ったり(ゲルネ)、各曲の間に他の曲を入れて「女性の鑑」としての構成を遮断したり(クールマン)、この曲集にはさまざまな取り組みが試みられる。

     10月28日に第一生命ホールで《女の愛と生涯》を取り上げたメゾソプラノの白井光子とピアノのハルトムート・へルは、形として特に変わったことはしなかった。

     白井とへルのようにシュトゥットガルト音大の学生のころから続いているデュオともなると、その関係性も自然に音楽に反映される。互いが繊細に反応しあう気遣いが声、音のひとつひとつに反映していた初期。その後、白井を置いてヘルの音楽が勝手に展開され、冷たさが感じられるときもあった。白井が大病したあと、ヘルの思いやりに満ちたピアノ・パートの上に、白井は心細そうに立っていた。

     そして今、彼らの《女の愛と生涯》には、互いにとらわれない自由が染み渡っていた。ヘルのピアノは大胆苛烈に伸縮し、たきつけ、走り、楽譜を逸脱するかに思われる。かと思うと、ピアニッシモに優しさを極め、白井を乗せる。勝手気ままな解釈とも言えるが、それによって浮かび上がるシューマンの特異な魅力も聞こえてきた。対して、白井の音楽を形づくるのは、揺るぎのない、静ひつな信念に違いない。何に対しても忠実。ヘルに対しても、曲に対しても。

     第1曲初めの「彼と出会ってから、彼しか見えない」と歌う言葉を白井は少し弱く、やわらかく、はにかみを含むように響かせる。第2曲で、彼は誰よりも素晴らしい人とほれぬき、その彼が自分を選んでくれたことがうれしいあまり第3曲では「分からない、信じられない」と戸惑う。婚約指輪にそっと口づけする第4曲において、白井の声は永遠に化するように聞こえた。婚礼の日の歌は輝きに満ち、身ごもりを夫に告げる響きは優しさ故になぜか悲しくも響く。母になった喜びのあと、夫は亡くなり「今、あなたは私に初めての苦痛を与えました」と全8曲を閉じる。

     そこには「女性の鑑」などかけらも感じられず、いちずで真摯(しんし)な美しい生のみが彫り込まれていた。その真摯さにおいて、心をうつ。それがヘルの自由をも包み込む。古いとか、女性蔑視とか、現代の一般的な視点にとらわれない、白井の人生から生まれた価値観が貫かれているのだろう。さまざまなことを許容するさまざまな優しさが聞こえる。

     何に対しても、私たちが一方向の視点に立って批判することの愚を、教えていた。

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