音楽ジャーナリスト&ライターの眼 ~今週の音楽記事から~

新聞社の音楽記事、音楽ライターによる書き下ろし記事を集めたウェブサイトです。(毎週、月・木更新)

特集記事

つぶやく・ブックマークする

    シューマン、ベートーヴェン、シューベルトからの“特別”な3作品。 その豊かな響きから、作曲当時の彼らの心模様が鮮やかによみがえる

    配信日: | 配信テーマ:クラシック

    (取材・文/原納暢子)


    ●天才たちのロマンチシズムに酔いしれる

    若草色のロングドレスで伊藤恵が登場するや、開演前の緊張した空気が和らいで、ステージが春めいて見えた。誘われるように深呼吸して、演奏を待つ束の間もうれしい気分になる。

     興味深いプログラム、何か意図があるのだろうかと思い巡らせていた。「幻想小曲集」は、シューマン(1810〜56)がピアニストのクララ・ヴィークとの交際を彼女の父に猛反対されていた27歳頃の作品で8曲構成。ベートーヴェン(1770〜1827)の「ピアノ・ソナタ第30番」とシューベルト(1797〜1828)の「ピアノ・ソナタ第20番」は、人生終盤・最晩年の作品である。作者は違えど作曲時期が対照的で、しかも伊藤が深掘りし続けている作曲家ばかり。20年がかりでシューマンのピアノ曲全集、8年がかりでシューベルトのピアノ曲集…と、半端ない年月を費やしてCD録音もしている。

    「幻想小曲集」の第1曲「夕べに」が始まった。優しい旋律と左手の分散和音のバリエーションが、ペダルの絶妙な操作とともにゆらいで響く。今日の荷を降ろして、静かに思うのは、きっとクララのことだったろう。

     続く「飛翔」では一転、鋭気を取り戻したかのように、強い意志が力強く表現される。すべての呪縛を解き放って、心のままに彼女の元へ羽ばたきたい、いや、彼女と未来へ羽ばたきたい…が、本音か。

     うねりに揉まれ、流れに飲み込まれそうになりながらも生きながらえる運命を感じる第5曲「夜に」、彼女との幸せなおとぎ話を空想して気を紛らわすような第6曲「寓話」。想像の世界へと駆り立てるメリハリの効いた演奏に、聴衆の心には空想シーンが映画ダイジェストのように浮かんだり消えたりし続けたことだろう。

     第7曲「夢のもつれ」では、右手の薬指と小指を駆使したトリルのニュアンス変化が、夢と現(うつつ)の交錯を印象づける。そして第8曲「歌の終わり」で、互いの意志を確認するかのように、幸せの鐘を思わせる両手の旋律が響き合い、闇をくぐり抜けてたどり着いた平穏にふと気付く…。詩的で甘美なシューマンの世界が、終始ふくよかな音色でゆったり歌うように綴られ、静かに終わるのだった。

    「ピアノ・ソナタ第30番」では、ベートーヴェンが秘める意外な優しさを多くが感じたことだろう。おなじみの「交響曲第5番<運命>」などから、苦難と闘う厳めしいイメージがつきまとう作曲家だが、彼のロマンチックな内面がそのまま伝わってくるような演奏だった。

    第1楽章は幾何学風のリズムで始まり、副次主題と絡みながら進む。流れのいい展開、華やかさのある情味にうっとりする。第2楽章からバッハ風の旋律が現れ、第3楽章では「ゴルトベルク変奏曲」を想起する6つの変奏がどれも豊かな表情で、幸福感を感じた。

     中でも、第3変奏や第4変奏は、左右の甘美なフレーズが、仲良く手をつないで走ったり、追いかけっこしているかのよう。終盤の第5変奏や第6変奏では、左手のバリエーションや低音ベースが美しい色彩を放ちながら、右手の高音旋律と楽しげに歌ったり踊ったり………。そして、いつもの分かれ道まで来ると急に無口になる恋人たちのように、静かな余韻を残してエンディングを迎える。

    きっとベートーヴェン自身の想い出を反映させたのだろう、この曲は「不滅の恋人=アントニア・ブレンターノ」の娘に献呈しているが、ホントは本人に捧げたかったのでは………と感じ入ってしまうのだった。


    ●興味深いプログラムの選曲、その心とは?

     休憩を挟んで、シューベルトの「ピアノ・ソナタ第20番」。彼が31年の短い生涯を閉じる2カ月ほど前に書いた4楽章構成の大作で、演奏時間は約40分だ。

     口ずさみたくなるような美しい旋律の随所に、死期を悟ったかのような暗く不安げなフレーズが見え隠れしたり、激しいパッセージが噴出したり…。第2楽章はレクイエムに聞こえるほど。しかし、第3楽章の3/4拍子の旋律の変化に輪廻転生を感じ、聖歌のような第4楽章に至ると、旅立つ人の一生を讃え来世での多幸を祈る気持ちが満ちてくるのだ。シューベルトの思いを永遠につなげるような演奏だった。

    そして、演奏を終えた伊藤から興味深い告白があった。

     このプログラムは「人生最後のコンサートで演奏したい曲目」だと、朗らかに話すのである。「100年生きても3人の境地に追いつけそうにない」といったことも語っていたが、自身もきっと納得の出来ばえだったろう、晴れやかな表情だった。

     アンコール曲はシューマンの「献呈」。クララと念願の結婚を果たした年に作った歌曲集「ミルテの花」から、「君は僕の魂、僕の心…」とクララへの思い満載のラヴソングを、リストがピアノ独奏用に編曲したものだ。伊藤の芳醇なピアノの響きが、幸せを運ぶ春風のように聴衆を温かく包み込んだ。



    「珠玉のリサイタル&室内楽
    伊藤 恵 ピアノ・リサイタル」

    日時:2017年3月24日(金)
    会場:東京・ヤマハホール

    2017年4月24日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 

    特集記事一覧を見る

    クラシック のテーマを含む関連記事

    <Topics>サイモン・ラトル レパートリーを広げた ベルリン・フィルと最後の来日公演

     16年にわたってベルリン・フィルの首席指揮者・芸術監督を務めたサイモン・ラトルが同フィルと最後の来日公演を行い、記者会見などでこのオーケストラに対する思いを語った。 「私が(首席指揮者に)選ばれたとき、このオーケストラの可能性を拡大することが私の務めと思った。レパート...

    <新・コンサートを読む>白井とヘルの《女の愛と生涯》=梅津時比古

     ◇現代の視点で批判しない 「女性の鑑(かがみ)」という慣用句は死語に近い。口にするだけで、古い、女性蔑視、と笑われそうだ。かつてはこの言葉は崇高な響きを伴っていた。「女性の鑑」を主題に据えた物語、詩、伝記は数々ある。 シューマンの歌曲集《女の愛と生涯》のテクストである...

    世界中でもっともライヴを聴きたいと切望されているピアニスト、グリゴリー・ソコロフのCD&DVDが登場

     長年、「幻のピアニスト」と呼ばれ、現在はヨーロッパで活発な演奏活動を行い、そのつど大きな話題を呼んでいるロシアのグリゴリー・ソコロフは、いま世界中でもっともライヴを聴きたいと切望されているピアニストではないだろうか。 もちろん、1990年以降は来日公演がないため、日本...

     

    ページの先頭へ戻る

    • RSS
    • お問い合わせ