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    ジョン・コルトレーン編<2>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?

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    1955年3月、チャーリー・パーカーを失ったニューヨークのジャズ・シーンは、悲しみに包まれていた。亡くなる前の数年は麻薬による疲弊でまともな演奏ができるような状態ではなかったとはいえ、ビバップというスタイルを創出したパイオニアのひとりが欠けてしまった穴は大きかった。

    しかし逆にそのことが、最前線で活動する遣されたジャズ・ミュージシャンたちに、自らの力で“次のジャズ”を切り開いていかなければならないという意識を生じさせることになった。

    チャーリー・パーカーに会うためにニューヨークへ出てきて、一時期は暮らしを共にしていたマイルス・デイヴィスに、ほかの誰よりもその意識が強く存在したとしても不思議はない。

    それを証明するように、7月に行なわれた第2回ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにオールスターズの一員として出演したマイルス・デイヴィスは、「ラウンド・ミッドナイト」で観衆を圧倒する演奏を披露して、その存在感を印象づけることになる。

    このフェスティヴァルの企画、当初のプランではマイルス抜きの、カウント・ベイシー、ルイ・アームストロング、ウディ・ハーマンといったスウィングの大御所らが参加するジャムセッションだったものが、チャーリー・パーカーの逝去を受けて追悼的な演出に変更され、「ナウズ・ザ・タイム」を加えたためにマイルスが呼ばれた――という“付け足し”のようなオファーだったらしい。

    しかし、こうしたチャンスをみすみす見逃すようなマイルスではない。終わってみれば、オールスターズでもチャーリー・パーカー・トリビュー卜でもなく、マイルス・デイヴィスのミュート・トランペットの音色だけが印象に残るフェスティヴァルになった――というわけだ。

    このステージの成功で、マイルスの1955年後半のスケジュールは一変。ツアーや大手レコード会社との契約が舞い込み、そのために彼はレギュラー・バンドを結成して対処せざるをえなくなる。

    ところが、マイルスがメンバーの第1候補に考えていたソニー・ロリンズは音楽活動から離れて隠遁中だったため連絡がとれず、代わりを探さなければならなくなった。

    そこで何名かの候補とリハーサルを重ね、そのなかにコル卜レーンもいたのだが、なぜか彼はオルガン奏者のジミー・スミスとの仕事があるからという理由をつけて、フィラデルフィアに戻ってしまう。

    このリハーサルでは、目前に迫る本番スケジュールをこなさなければならないという優先目的があったため、それを気にしていたコルトレーンがなんとかリーダーであるマイルスの意を汲んでサウンドをまとめようと、あれこれ質問攻めにしたようだ。

    ところが、余裕がなかったのか生来の短気な性格が出たのかは定かでないが、「黙って自分が最高だと思う演奏をしろ!」といわんばかりにマイルスが“ガン無視”したことに、コルトレーンが凹んでしまったというのが本当のところらしい。

    タイムリミットも迫りいよいよ窮したマイルスは、リハーサルをしてレパートリーも把握しているコルトレーンしかいないと観念。彼に参加してくれるようメンバーを通じて“お願い”し、ようやく、ジャズ史にその名を刻むことになるマイルス・デイヴィス“黄金の”クインテット(第1期)が成立することになる。

    こんなグダグダな立ち上げのようすからも、ジョン・コルトレーンへの最初の脚光は、当たるべくして当たったものではなかったことがわかるだろう。しかも彼は、加入から1年ちょっとの1956年末、麻薬との関係を断ち切るためにクインテットからの脱退という選択を迫られることになるのだ。

    では次回は、ジョン・コルトレーンが“踏み絵”への道を歩み始める1957年の状況に焦点を移していこう。

    <続>

    2017年4月13日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:富澤えいち

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