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    チャーリー・パーカー編<5>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?

    配信日: | 配信テーマ:ジャズ

    前回、チャーリー・パーカーの演奏についてマイルス・デイヴィスは、“やたら速い音楽”で“口ずさめるようなメロディ”がなく人間性を前面に出すスタイルではなかったという印象を残していたことについて触れた。

    では、具体的にはどんな音楽だったのか――。それを記している部分を引用しよう。

    「バードの創造性と音楽的アイデアには限りがなかった。いくらでもいろんなスタイルでやれたし、同じアイデアを繰り返すなんてこともなかった。彼は毎晩、リズム・セクションを大慌てさせた。例えばブルースではこうだ。バードが11小節目から吹きはじめ、リズム・セクションがいつもどおりやる。すると、リズム・セクションは2拍目と4拍目の代わりに1拍目と3拍目にアクセントを置いているように聞こえる」(引用:『マイルス・デイビス自叙伝』マイルス・デイビス/クインシー・トループ著、中山康樹訳、JICC出版局)

    輪唱のように1拍ずつ減らしたフレーズを追加していくような手法は、20世紀前半の現代音楽/実験音楽の影響を感じさせるものと言えるだろう。

    しかし、チャーリー・パーカーはその手法を、トライアルではなく作品として完成させる手腕も備えていた点で現代音楽家とは一線を画し、ジャズ・ミュージシャンの本領を発揮していたのだ。つまり、1拍ずらしていくという機械的な方法論は、当然ながらメロディに重きを置いたスウィングのようなタイプの音楽とは距離を置くことになったが、曲自体の大衆性は失わずに観衆を楽しませる演奏になっていたということ。

    もちろん“ずらす”“崩す”ことでリズムや和声に違和感が生まれることにはなるが、モーツァルトの「トルコ行進曲」を持ち出すまでもなく、西洋音楽全般にとってエキゾチシズムを含めた違和感は重要な推進力でありつづけたはずなので、チャーリー・パーカーの方法論を邪道とする根拠にはならない。

    ただし、チャーリー・パーカーが生み出そうとしていた違和感は、20世紀半ばの成熟しつつあったポピュラー・ミュージック・シーンにおいても受け入れにくい別次元のものであったことが、彼を異端として排除したい勢力を生む原因になっていたことは想像に難くない。

    なぜならば、“別次元”のことを軽々と目の前でやられてしまうと、理解に苦しむ周囲は拒絶という安易な方法をとらざるをえなくなるからだ。実際にマイルス・デイヴィスは、こうも記している。

    「バードが変わったことをやりはじめると、マックスはデュークに『バードには付いていくな!』と叫ぶんだ。デュークはバードのようには演奏できないから、そのままビートをキープできないと、リズムがめちゃくちゃになってしまうってわけだ。(中略)バードが彼の方法ですばらしいソロをはじめたら、リズム・セクションにできることは、ひたすらビートをキープしてストレートに演奏することだけだった。そして最終的には、バードはきちっと正しく、元どおりのリズムに合わせて戻ってくるんだ。いつだって、まるで頭の中で準備が整っていたような見事さだった」(引用:『マイルス・デイビス自叙伝』マイルス・デイビス/クインシー・トループ著、中山康樹訳、JICC出版局)

    デビュー前のチャーリー・パーカーがカンザスシティのクラブに出演したエピソードを思い出してほしい。

    彼は、日ごろから練習していた既成のジャズにはない手法をそこで試してみたのではないか?
    それは、周囲が“付いていく”のが困難な、“リズムがめちゃくちゃになってしまう”ようなものだったのではないか?
    だから、“ひたすらビートをキープしてストレートに演奏する”ことができなかったリズムセクションは、演奏を止めざるをえなかったのではないか?
    そして観客は、演奏が止まった意味を(その時点では)理解することができなかったのではないか?

    唯一疑問が残るとしたら、周囲をドン引きさせる別次元のソロを展開したチャーリー・パーカーがその後、何をするために籠もったのかということだ。考えられるとすれば、修正点を確認できたことでさらにブラッシュアップするために、あるいは合奏という視点で新たに湧いたアイデアを具体化するために時間が必要だったのではないだろうか。

    いずれも、デビュー前のチャーリー・パーカーに「下手くそ!」という烙印を押すどころか、真逆の展開となるはずの理由だろう。ただし、ステージ経験に乏しかったことが引き起こしたアクシデントという可能性もなくはない。

    チャーリー・パーカーがニューヨークでめざましい活躍をする1940年代初頭には、すでに麻薬の常習者としても知られていたことを考えると、この天才音楽家にはステージ上での過度な緊張癖があったかもしれないからだ。

    いずれにしても、チャーリー・パーカーが“双葉より芳し”くなかったとは考えにくいし、“匙”ならぬ“シンバル”を投げられなければならないほど周囲を失望させていたはずはないのだ。むしろ、周囲の理解を超えた演奏のために引き起こされた、天才の登場を知らせる“オープニング・コール”に例えるべきエピソードとしてとらえ直さなければならない。

    そうであれば、チャーリー・パーカーを“踏み絵”にすることで、“ビバップ後”を受け入れるミュージシャンもしくはリスナーであることを示すことができるという考え方が生まれたとしても、不思議ではないだろう。

    受容には必ずしも理解を必要とせず、忍従であってもよい。いや、忍従のニュアンスが強かったからこそ、日本では“踏み絵”というイメージが重なったのだろう。
    <続>

    2017年3月30日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:富澤えいち

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