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    ラファウ・ブレハッチの新譜は、待望の《バッハ・リサイタル》

    配信日: | 配信テーマ:クラシック

     ポーランド出身のピアニスト、ラファウ・ブレハッチは、2005年のショパン国際ピアノ・コンクールの覇者である。同コンクールでは、マズルカ賞、ポロネーズ賞、ソナタ賞、コンチェルト賞などの副賞をすべてひとりで授賞するというコンクール史上初の快挙を成し遂げた逸材で、そのピアノは静謐な空気をたたえ、情感豊かで、躍動感と推進力にもあふれ、ピアノ好きの心をとらえてやまない。

     これまで何度か来日を重ねているが、いずれのコンサートでも、コンクール時よりさらに技巧と表現力に磨きのかかった「本物」の演奏を披露し、ずっと聴き続けたいという気持ちを抱かせてきた。

     ブレハッチは4歳から地元の教会でオルガンを弾き、バッハの音楽に親しんでいる。ピアノを始めたのは5歳のときである。そんな彼はインタビューのたびに、「バッハの音楽が好きなんです。いつか録音したい」と語っているが、そのバッハの新譜がついに登場した。世界中のファンが待ち望んでいたアルバムである。

     録音では、冒頭から自然で躍動感に満ち、天空に飛翔していくようなかろやかさと深遠さの絶妙のバランスを備えたバッハが現れ、ブレハッチの特質を存分に描き出している。聴き込むほどに徐々に心身が浄化されるような思いにとらわれ、そのピアノの音色はオルガンの響きにも似て、全身に幸福感をまとうような気分にさせられる。やはりブレハッチのバッハは、長年この作曲家の作品を弾き続け、オルガンと対峙し、その響きを存分に生かした奏法となっている。

    「以前、ショパンのプレリュードのアルバムを作りましたが、この作品を演奏するときにはバッハの作品を弾いてきたことが大きく役立っています。ショパンはバッハを敬愛し、作品にもバッハへの尊敬の念が現れています。ショパンのプレリュードは、ひとつひとつが完結された形で書かれていますが、全体を通して弾くと、大きなひとつの映像が浮かび上がる。ポリフォニックな書法も使われ、その点でバッハとの共通項が感じられます。プレリュードはエモーショナルな面があったかと思うと、ノクターン的な部分があり、エチュードを思わせるところもある。様式もバロックからロマン派にいたるまでさまざまな形式が含まれ、それらを追求していくのがこの上ない喜びにつながります。グレン・グールドがバッハで新しい世界を拓いたように、僕も新たなショパンの世界が構築できたらうれしいですね」

     2007年のインタビューでこう語っていたブレハッチだが、あれから10年、ようやくレコーディングされたバッハのアルバムも、新たな世界を切り拓いているように思える。

    「僕は、グールドのバッハの録音に出合ったとき、大きな衝撃を受けました。初めて耳にする斬新なバッハで、アーティキュレーションから音の響きの作り方まで、いままで聴いたどのバッハとも違いました。でも、何度も繰り返して聴くうちに、非常に論理的な演奏だということに気づいたのです。ひとつひとつの音、旋律、リズムなどすべてがこまかく分析され、それが有機的に作用し、しかも努力の痕跡がまったく見えない。すごいことですよね」

     ブレハッチの演奏も努力の痕跡は見えない。すべてが自然で清らかな水が流れるように、ひと吹きの涼風が吹いていくように、その音楽は素朴で飾らず、生真面目さをただよわせながらまっすぐに響いていく。

     ブレハッチは自分の生き方、価値観を非常に大切にする。コンクール優勝時、どんなに周囲に騒がれようと、演奏活動が忙しくなろうと、生きる姿勢は一貫していた。芯のぶれない強さを持ち合わせ、けっして有頂天になったりはしなかった。そして演奏も変わらないことをモットーとしている。演奏の質は向上するが、本質的な部分は変わらない。それがブレハッチの確固たる個性である。日々の精進から生み出される美しい彫刻のようなフォルムに彩られたピアニズム。その伝統的で古典的でみずみずしい演奏は、このバッハでも健在だ。

     とりわけいまのブレハッチの心身の充実が現れているのが、「イタリア協奏曲」の第3楽章。疾走するようなかろやかさと嬉々とした表情は、聴き手を愉悦の世界へといざなう。まさに新たなバッハの世界を提示している。


    「バッハ・リサイタル」
    イタリア協奏曲ヘ長調、パルティータ第1番変ロ長調、4つのデュエット、幻想曲とフーガ イ短調、パルティータ第3番イ短調、主よ、人の望みの喜びよ[マイラ・ヘス編](ラファウ・ブレハッチ[ピアノ]/UCCG1762[ユニバーサル])

    2017年3月23日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:伊熊よし子

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