音楽ジャーナリスト&ライターの眼 ~今週の音楽記事から~

新聞社の音楽記事、音楽ライターによる書き下ろし記事を集めたウェブサイトです。(毎週、月・木更新)

音楽ライター記事

つぶやく・ブックマークする

    【インタビュー】ジョニー・ウィンターを復活させた男、ポール・ネルソンと“ウィンターフェスト”

    配信日: | 配信テーマ:洋楽

    ジョニー・ウィンターが2014年7月16日に亡くなったというニュースは、衝撃を呼んだ。“百万ドルのブルース・ギタリスト”の異名を引っ提げてデビューした彼は長らく日本を訪れることがなく、まだ見ぬ強豪と呼ばれてきたが、2011年4月に奇跡の初来日公演が実現。さらに2012年4月、2014年4月にも日本のステージに立っている。2014年の来日ライヴでは縦横無尽の弾きまくりで、好調ぶりを見せていただけに、まさかたった3ヶ月後に亡くなるとは、信じられなかった。

    晩年のジョニーを支えてきたのが、ポール・ネルソンだった。ポールはジョニーのバンドのギタリストであり、親友としても彼をサポートしている。

    ジョニーの死について「まだ乗り越えていないし、永遠に忘れることは出来ないだろう」と語るポールだが、ジョニーにとって“復活の象徴”だったという日本のファンのために、インタビューに応じてくれた。

    ●あなたとジョニーが出会ったのはいつ、どこでしたか?

    ジョニーが『永遠のブルースマン』(2004)をレコーディングしているときだから、2003年頃かな。俺はプロレス団体WWE傘下のアメリカン・フットボール・リーグXFLのTV番組用のBGM音楽を録音していたんだ。それでブルースのパターンを弾いているのを、たまたまスタジオにいたジョニーが聴いて、自分のアルバム用に曲を書いてくれないか?と頼まれた。それで「永遠のブルースマン」を書いて、次の日に聴かせたら、「もう2曲書いてくれない?」って言われた。それで「パック・ユア・バッグス」とかを書いたんだよ。それがきっかけとなって、アルバムで何曲かギターを弾くことになって、それが発展してアルバム全曲でプレイすることになった。「せっかくアルバムで弾いてくれたんだから、ライヴでも弾いて欲しい」と頼まれて、「いいよ、いつから?」と答えたら、「明日イギリスに行くから」と言われたよ。その後、「じゃあマネージャーもやってくれる?」と訊かれた。とんとん拍子だったんだ(笑)。ジョニーと初めて会ったとき、彼は健康状態が悪くて、すぐにでも死にそうだった。彼のギター・プレイはあるべきところにない状態だったし、キャリアも行き詰まっていて、経済的にも困窮していた。彼は俺のことを信じてくれて、彼の人生に立ち入らせてくれた。俺は友人として出来ることをやっただけなんだ。

    ●ジョニーはあなたのどんなところを気に入ったのでしょうか?

    初めて一緒にプレイしたとき、向かい合って椅子に座って、 ギターを弾いていた。で、そのテイクを録った後、俺が「もう1テイク弾かせてくれないか」と頼んだんだ。「ジョニーのギターがもっと前面に出るように、音数を減らしたい」ってね。ジョニーはそれで俺のことを気に入ってくれたみたいだった。「そんなことを言ってくれるのは君だけだよ。みんな俺とバトルをしたがるんだ」と肩をすくめていた。それが俺とジョニーの交流の始まりだった。アルバムをレコーディングしたキャリッジ・ハウス・スタジオのオーナー、ジョニー・モンタグニースが「君たちは運命で結びついているのが見える」と言っていたのを覚えているよ。そのときは何を言っているんだろう?と思ったけど、実際にそうなったんだ。俺は彼のバンドの一員となって、彼は俺の師匠になってくれた。それまで俺はブルースを聴いていたし、それなりに知っているつもりだった。でも彼からブルースのすべてを学び直したんだ。

    ●ジョニーはどんなブルースを愛聴していましたか?

    ブルースと名のつくもの、あらゆるスタイルを聴いていた。本当にブルースを愛していたんだ。朝起きてから夜寝るまで、ずっとブルースを聴いているか、弾いているかのどちらかだったよ。彼の家に行くと、家の半分がレコード棚だった。彼のiPodには1万5千曲のブルースが入っていたんだ。その他にも彼はボブ・ディランやザ・バンドを好んで聴いていた。あとフランク・ザッパのファンで、「モンタナ」や「マフィン・マン」、「ザ・トーチュア・ネヴァー・ストップスなどを鼻歌で歌ったりしていたよ。

    ●ジョニーにとって最後のアルバムとなった『ステップ・バック』が発表され、彼の人生を追ったドキュメンタリー映画『ダウン&ダーティー』も公開されますが、ジョニー自身は両作にどの程度関わっていたのでしょうか?

    ジョニーは『ステップ・バック』の完成ミックスを聴いていたし、映画も見て、とても喜んでいた。どちらも誇りにしていたよ。『ダウン&ダーティー』は2014年初め、テキサスの『SXSW』フェスティバルでプレミア上映が行われて、ジョニーと俺でポップコーンを食べながら見たんだ。自分についての映画が作られるなんて信じられないと笑っていたよ。

    ●映画『ダウン&ダーティー』が作られることになったのには、どんな経緯があったのですか?

    『ルーツ』を出した『メガフォース・レコーズ』に俺が話を持ちかけたんだ。ジョニーのドキュメンタリー映画を作らないかってね。それから1ヶ月ぐらいして、このプロジェクトに興味を持っている映画監督がいるって電話があったんだ。グレッグ・オリヴァーという人で、これまでどんな映画を作ってきたのか訊いたら『極悪レミー』だと言われた。ちょっと悩んだね(笑)。でも実際に『極悪レミー』を見てみたら、レミーの人間性を掘り下げて、正しい形で描いていると感じた。グレッグだったらジョニーの人間像を描いてくれると確信したんだ。それで彼と一緒にやることにした。彼は3年近くジョニーと行動を共にして、日本にも来たよ。ツアー中はどこに行っても彼がいるんで「おい、どこまで撮るんだよ」と文句を言ったこともあるけど、とてもフレンドリーな人だったし、完成した映画を見ると納得できたよ。映画にはエドガーやビリー・ギボンズ、ウォーレン・ヘインズも出演しているし、ジョニーがマディ・ウォーターズと共演する映像もある。B.B.キングがジョニーについて語っていたりもする。

    ●映画の予告編を見ると、日本でのライヴ・シーンもあるようですね。

    『ダウン&ダーティー』において、日本でのライヴは大きな部分を占めているんだ。ジョニーはかつてドラッグ治療のためにメタドンを処方されていたけど、そのせいで日本に入国出来なかった。日本ではメタドン自体がドラッグ扱いされていたからね。ジョニーがメタドンを必要としなくなり、日本でプレイ出来ることになったのは、ジョニーの復活を象徴する出来事だったんだ。彼と会話したのを覚えているよ。「これで日本にだって行けるな」と言うから、「…いや、さっきツアーをブッキングしたところだよ」って答えたんだ。彼は本当に喜んでいた。

    ●ジョニーの日本の印象は、どんなものでしたか?

    ジョニーは日本のすべてを愛していたよ。人々、食べ物、町並み…彼は何度でも戻りたがっていた。それはリップサービスではなく、実際に毎年のように日本に戻ったんだ。彼は特に日本の人々が礼儀正しく、敬意を持って接してくれることを喜んでいた。

    ●初来日公演が行われたのは2011年4月、東日本大震災の翌月でしたが、日本に来ることに躊躇はありませんでしたか?

    正直、最初はどうしようかと悩んだよ。アメリカのテレビでは日本が壊滅したみたいな報道がされていた。もちろん被災地は大変だったと思うし、心からお見舞いを申し上げるけど、まるで日本に行くことが自殺行為というムードだったんだ。でも俺は直接日本の知人にコンタクトを取って、東京の人々が普通の日常生活を営んでいると教えてもらっていた。それで日本のみんながまさに必要としている、音楽の喜びを提供することにしたんだ。ジョニーを説得する必要はなかったよ。彼は「オーケー、やろうぜ」と言ってくれた。彼は本当に大きなハートの持ち主だった。ジョニーは長いフライトが苦手だから、ハワイを経由して来たんだ。最終判断はハワイで決めた。彼にとっても俺にとっても、とても重要なツアーだったよ。

    ●映画といえば、B.B.キングのドキュメンタリー『B.B.キング/ザ・ライフ・オブ・ライリー』ではジョニーがインタビューを受けていますね。

    ああ、あのインタビューはもう3、4年前、ジョニーの自宅で撮影したんだ。それから音沙汰がなくて、忘れかけた頃に公開されたんだよ。良いドキュメンタリーだったとは思うけど、もっと早く公開して欲しかったな。

    ●ボックス・セット『トゥルー・トゥ・ザ・ブルース/ジョニー・ウィンターのすべて』にジョニーはどの程度関わっていますか?

    俺が“エグゼキュティヴ・プロデューサー”としてクレジットされているけど、ジョニー自身が曲目や写真、アートワークをチェックして、OKを出しているんだ。映画のときもそうだけど、彼は「俺のボックス・セットが出るなんて凄いな」と言っていた。それは彼の謙虚な人柄を表すものであり、彼がいかに過小評価されてきたかを意味しているよ。自分の写真がラベルに印刷された“スクリーミング・デーモン”バーベキュー・ソースが発売されたときは驚いていたけどね(笑)。

    ●このボックスに収録された「モジョ・ブギー」が『ザ・ウィンター・オブ’88』のスタジオ・ヴァージョンでなく『ライヴ・ブートレグ・シリーズVol.3』のヴァージョンなのは、ジョニーが『ザ・ウィンター・オブ’88』の出来を気に入っていなかったからですか?

    いや、単にボックスが『ソニー』主導だったんで、ライヴ・ヴァージョンの方が権利を取りやすかったというだけだ。ただ、ジョニーが『ザ・ウィンター・オブ’88』のサウンドを気に入っていなかったことは事実だ。彼は小ギレイなロック・サウンドではなく、ダーティーなブルースが好きだったからね。

    ●ジョニーはかつて“一番好きなのがブルース、ロックは二番目”と語っていましたね。

    ジョニーはロック特有の、ディストーションで隙間のないサウンドも好きではなかった。彼がジョニー・ウィンター・アンドのことを良く言わないのは、自分とリック・デリンジャーの2人がギター・バトルをして、音の隙間がまったくなかったからなんだ。ジョニーは「窮屈で、呼吸も出来なかった」と言っていたよ。ジョニーが俺のことを気に入ってくれたのは、彼のプレイを盛り上げることに徹して、自分の我を押し出そうとしなかったからだった。俺はスティーヴ・ヴァイからギターを学んで、バークリー音楽院にも通ったし、弾きまくろうと思ったら簡単なことだ。でも俺にとって大事なのは、トータルなサウンドなんだ。ジョニー・ウィンター・バンドはジョニーが主役だし、彼をサウンドの軸にするべきなんだよ。

    ●今後、ジョニーの未発表音源を集めた作品は、どんなものがリリースされる予定ですか?

    おそらくライヴ・アルバムが中心になると思う。俺の知る限り過去8年、ジョニーは毎年140回ずつライヴを行ってきて、そのうち少なくない割合がレコーディングされていた。俺が彼と一緒にやる前のことを考えると、膨大な数のライヴ音源が残っているよ。彼のライヴを収めた『ライヴ・ブートレグ・シリーズ』シリーズは現在Vol.11まで出ているけど、まるで曲が重複していないんだ。今後、良いライヴだけを選んでも、Vol.100ぐらいまで出せるだろうな(笑)。これから本格的にテープ・ライブラリを聴き込んでいく必要があるけど、俺自身、どんな音源があるのか楽しみなんだ。1970年代後半だったと思うけど、ジョニーが全曲ジミ・ヘンドリックスのナンバーをプレイしたライヴもある。「見張り塔からずっと」「マニック・ディプレッション」「クロスタウン・トラフィック」とかね。

    ●ジョニーは生前の音源をあなたに委ねたのですね。

    ジョニー自身、歳を取っていることは自覚していたし、あと何年も出来ないことは判っていた。それで俺に、自分が残した音源を任せてくれたんだ。ジョニーは言ってくれたよ。「俺がいてもいなくても、後のことは頼むよ」ってね。とても名誉に思っている。これからジョニーの音楽を生かし続けるのは、俺の任務だ。エルヴィス・プレスリーやジミ・ヘンドリックス、ドアーズ、ジャニス・ジョプリンのように、ジョニーは生き続けるんだ。

    ●ジョニーが亡くなったときのことを話していただけますか。

    ジョニーは本当に健康な状態だったんだ。ヨーロッパに渡って、オーストリアで2回、フランスで1回ショーをやった。ル・シャノンという1万人規模の大きなフェスティバルで、ジョン・フォガティやシカゴが出演していた。俺は常々、ジョニーに「B.B.キングがステージに上がって、水の入ったコップを持ち上げるだけでお客さんは大喝采する。俺たちは、あなたをそのレベルにまでしたいんだ」と彼に話していた。オーストリアでの2日目のライヴで、彼がステージに上がって、水を飲もうとしたら、それだけで大声援が上がったんだ。ジョニーは笑って、「ポール、君が正しかったよ」と言ってくれた。その日のライヴは、火を噴くように激しいものだった。

    ●ジョニーが亡くなったのは7月16日、スイスのチューリヒでした。

    フランスでのショーの次の日、ジョニーは朝から咳が出て、どんどん酷くなっていったんだ。彼は長年タバコを吸ってきたせいで肺気腫を患っていた。それで彼を病院に連れていくことにした。熱があったから抗生物質を注射して、ホテルに戻って休むことにした。そうして彼は眠りについて、そのまま目覚めなかったんだ。幸いだったのは、彼が睡眠中に亡くなったことだ。苦しんだりせず、平和な表情だった。

    ●もしジョニーが生きていたら、どんな予定がありましたか?

    9月にTV番組『デヴィッド・レターマン・ショー』に出演することが決まっていたし、エドガーと一緒にフェスティバルに出演することになっていた。それから1年間ツアーすることが決まっていたんだ。“ウィンターフェスト”の構想は、そこから始まった。ジョニーが亡くなって、各地のプロモーター達にツアーは中止にせざるを得ないと連絡した。でも彼らは、ジョニーに捧げるトリビュート・ショーをやって欲しがった。ジョニーのファンも、我々と一緒に彼の音楽を楽しみたかったんだ。ウェブサイトでジョニーの訃報を発表したとき、10分で300万人がアクセスした。世界中のそれだけの数の人々に、ジョニーの音楽は響いていたんだ。

    ●“ウィンターフェスト”について教えて下さい。

    ジョニー・ウィンター・バンドのメンバーがいろんなゲストを迎えて、ジョニーの音楽をプレイして、彼の人生と音楽のセレブレーションをするのが“ウィンターフェスト”だよ。ジミ・ヘンドリックスに捧げる“エクスペリエンス・ヘンドリックス”に近いスタイルだ。エドガー・ウィンターやサニー・ランドレス、ジョー・ルイス・ウォーカー、ロニー・ベイカー・ブルックス、デビー・デイヴィス、マイク・ジトーなどが賛同して、一緒にプレイしている。それ以外にもジョニーの友人だったり、ツアーで一緒になったり、彼の影響を受けたミュージシャンだったり…いろんな人が参加したいと言ってくれているよ。そのことからも彼がいかに愛され、尊敬されていたかを再認識したね。“ウィンターフェスト”はこれからも続けていきたいね。アメリカだけでなくヨーロッパや日本のジョニーのファンのためにもプレイしたいし、ミュージシャンと交流したいと考えている。

    ●あなたにとってジョニーはどんな存在でしたか?

    ジョニーは 俺にとって父親で、兄弟で、伯父で、友人だった。彼からはあらゆることを学んだし、彼の音楽を生かし続けて、新しい世代の音楽ファンに伝えることは、俺の義務だと思う。『ステップ・バック』は世界各国のブルース・チャートで1位になっているし、グラミー賞の候補にもなっている。ジョニーは長年、グラミーを獲得したいと話していたんだ。今回はそれが実現するといいね。俺はソロ契約をして、2015年にアルバムを出すことが決まっているけど、“ウィンターフェスト”も続けてやっていく。ジョニーの人生は、俺の人生の一部なんだ。

    2014年12月25日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:山崎智之

    音楽ライター記事一覧を見る

    洋楽 のテーマを含む関連記事

    リズム重視してアレンジ チーフタンズのリーダー パディ・モローニ

    アイルランドを代表する伝統音楽のグループ、チーフタンズが来日公演を行う。現地の文化に根ざしながら、親しみやすいサウンドを展開。度々グラミー賞に輝き、ローリング・ストーンズやジョニ・ミッチェルら、有名どころとの共演も多い。長きにわたる活動について、リーダーのパディ・モロー...

    ライブ盤に込めた思い ジャクソン・ブラウン 人間の良心 信じている 

     米国のベテランシンガー・ソングライター、ジャクソン・ブラウンが公演のため来日した。社会や個人のあり方を世に問う誠実な姿勢が、世界中で支持されている。混迷する世界情勢の中、ジャクソンは我々に何を伝えていきたいのか。最新のライブ盤「ザ・ロード・イースト」(ソニー)に込めた...

    【ライヴ・レビュー】イエスfeaturingジョン・アンダーソン、トレヴァー・ラビン、リック・ウェイクマン/2017年4月17日 東京 Bunkamuraオーチャードホール

    2017年4月、イエスfeaturingジョン・アンダーソン、トレヴァー・ラビン、リック・ウェイクマンのジャパン・ツアーが行われた。日本公演が発表された時点では、来日公演はアンダーソン、ラビン&ウェイクマン(ARW)という名義で行われることになっていた。だが直前の4月9...

    2017年、日本に吹く熱風 / サンタナ『ロータスの伝説 完全版』とジャパン・ツアー

    これまで洋楽アーティスト達は数多くの伝説的ライヴ・アルバムを日本で録音してきた。ディープ・パープル『ライヴ・イン・ジャパン』やチープ・トリック『at武道館』、ボブ・ディラン『武道館』、エリック・クラプトン『ジャスト・ワン・ナイト』、スコーピオンズ『蠍団爆発!トーキョー・...

    世界的ベーシスト、ネイザン・イーストの公開リハーサルで見た、演奏が練り直され新たな響きが生まれる瞬間

    (取材・文/飯島健一) 卓越したプレイで数多のミュージシャンに信頼され、音楽ファンも魅了するベーシストのネイザン・イースト。今年1月に2ndソロアルバム『Reverence(レヴェランス)』を発表して、2月に来日。ビルボードライブ東京での公演前夜に開催された今回のスペシ...

     

    ページの先頭へ戻る

    • RSS
    • お問い合わせ