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近代・現代の音楽

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20世紀音楽の流れ──その作曲家たち

ドビュッシー

(図=ドビュッシー)

20世紀の音楽はドビュッシー(C.A. Debussy 、1862-1918)の印象主義音楽とともに始まるといえます。彼がパリ音楽院に入学したのが1873年、そこでローマ大賞を受賞したのが11年後の 1884年。そして、印象主義の最初の作品ともいわれる《牧神の午後への前奏曲》を書いたのが1894年のことです。とすれば、20世紀の音楽ともいうべき、それまでの伝統的な書きかたと異なった音楽の始まりを、その時期とみなすこともできるでしょう。

しかし、その時期には、ドイツでは、まだリヒャルト・シュトラウスがワーグナーふうの音楽を書き、ブルックナーもマーラーも健在でした。イタリアでは、ヴェルディが最後の歌劇《ファルスタッフ》を書き上げ、プッチーニが活動期に入る頃です。つまり、時を同じくして、伝統的な音楽が一方では盛んに作られていた時期だったのです。こうした新旧2つの流れは、第一次大戦まで並行しながら進んでいきますが、その中で、より新しく、より実験的な音楽も書かれていき、次第に、その存在が注目されるようになっていくのです。

ラヴェル

(図=ラヴェル)

ドビュッシーの印象主義音楽は、当時のフランス美術界で、モネ(C. Monet、1840-1926)、ルノアール(A. Renoire、1841-1919)、セザンヌ(、1839-1906)、ドガ(E. Degas、1834-1917)などの画家たちによって盛んに使われていた新しい技法“印象主義”を、音楽に適用したことで生れました。その中心的な手法は、光と影の常に変化する効果を表現することを目的に考え出されたものです。そのために、ドビュッシーは全音音階その他の理論を利用し、響きの工夫を凝らして、これまでの音楽とは異った効果を生み出すことに成功しました。このドビュッシーと同種の技法を用いたラヴェル(M. Ravel、1875-1937)がその後に続き、この印象主義の技法は全世界の作曲家に大きな影響を与えることになります。
同時代のその他の作曲家にはデュカス(P. Dukas、1865-1935)やルーセル(A. Roussel、1869-1937)などがいます。前者では《魔法使いの弟子》、後者ではバレエ音楽《くもの饗宴》がよく知られています。

ストラヴィンスキー

(図=ストラヴィンスキー)

このドビュッシーの後半生の活動に重複するように、ロシアの作曲家ストラヴィンスキー(I. Stravinsky、1882-1971)が現れ、ディアギレフのロシア・バレエ団のために書いた諸作品によって、一躍その名を知られるようになります。また、その荒々しい原始主義的な音楽が、当時試行錯誤を繰り返しつつあったヨーロッパの作曲家たちに、大きな刺激を与えることになりました。
20世紀に入ってから、フランスには文学における象徴主義が生れ、美術界ではフォーヴィズム(野獣派)が生れましたが、ドイツにも表現主義とよばれる芸術運動が起こりました。これらは、それぞれに独自の特徴を示していますが、コントラストの激しさや写実的でない形態の表現に共通した特色があるといえます。ストラヴィンスキーの音楽や、後から触れるシェーンベルクやバルトークの音楽などが、それと類似の傾向を示しています。

その後、さらにキュビズム(立体派)やアブストラクト芸術、あるいはダダイズムなどの諸傾向も現れ、ある種の破壊的な芸術思潮も生れてきますが、それも第1次大戦によって消滅し、次の第2次大戦との谷間の時期にはシュールレアリズムが出現してきます。
一方、思想界では、ドイツにヴィンデルバント(Windelband、1848-1915)が出て新カント派とよばれ、唯物論的傾向への反省を求めます。フランスには、生の哲学を説いたベルグソン(H. Bergson、1859-1941)、アメリカにはプラグマティズムのデューイ(J.-Dewey、1859-1952)などが現れ、さらに、フランスにはサルトル(J.P. Sartre、1905-1979)が登場し、実存哲学が文学的な運動と結びついて、人間の実存についての追求が行われました。また、文学界では、フランスにプルースト(M. Proust、1871-1922)が出て、名作《失われた時を求めて》を書き、アメリカにはヘミングウェイ(E. Hemingway、1899-1961)やフォークナー(W. Faulkner、1897-1962)などが現れ、一種の文明批評的な視点からの文学を書きました。そのほかイギリスのショー(B.Shaw、1856-1950)、ドイツのトーマス・マン(T. Mann、1875-1955)、フランスのロマン・ロラン(R. Rolland、1866-1944)、ロシアのゴーリキー(M. Gorky、1868-1936)なども出て、20世紀的な文学作品が続々と誕生していきます。

音楽の世界では、第1次大戦後のフランスに六人組とよばれる若い作曲家のグループが生れました。その6人の作曲家とはミヨー(D. Mihaud、1892-1974)、オネゲル(A. Honegger、1892-1955)、プーランク(F. Poulenc、1899-1963)、デュレ(L.Durey、1888-1979)、タイユフェール(G. Tailleferre、1892-1983)、オーリック(G. Auric、1899-1983)たちです。彼らは反ロマン主義、反印象主義という立場に立って、単純で直截的な音楽を書くことを目ざしていました。とくにミヨーは、多くの点でその後のフランス音楽の方向に指標を与えた人として重要です。技法的には複調性を好んで用いています。オネゲルはスイス出身で重厚な作風をみせ、プーランクはわかりやすさとフランス的な感覚に特徴を感じさせます。また、タイユフェールは女性作曲家でした。

サティ

(図=サティ)

この六人組の指導的立場に立っていた作曲家にサティ(E. Satie、1866-1925)がいて、奇妙な標題をもつ作品を書いたことでよく知られています。さらに、六人組と同世代にはイベール(J. Ibert、1890-1962)がいて、《寄港地》そのほかの作品を遺しています。また、この六人組の後に続く世代には、メシアン(O. Messiaen、1908-92)やジョリヴェ(A. Jolivet、1905-1974)などがおり、それにブーレーズ(P.Boulez、1925-)が続いています。

シェーンベルク

(図=シェーンベルク)

この時期のドイツには、ヒンデミット(P.Hindemith、1895-1963)が出て、実用音楽的な作品を書きました。また、オーストリアにはシェーンベルク(、1874-1951)が現れ、12音音楽を確立して、20世紀音楽が当初において模索していた無調性という指向の、1つの帰結点を示すことになりました。
12音技法というのは、オクターヴを構成する12の音のどれもが同じ資格を持つと考えることから出発します。その12音をすべて1回ずつ使用して、セリーとよばれる音列を作り、そのセリーをいろいろに組合わせて音楽を構成していく方法です。つまり、従来の意味での主音、属音といった、音に固有な機能を与えることなく音楽を作る方法、つまり無調性の音楽なのです。それまでの、たとえば全音音階や中世の教会旋法の利用とか、自由な付加音による不協和音の使用、あるいは、複調ないしは多調の方法を用いるといったやりかたも、確かに伝統的な機能和声から離れる方法の1つでした。しかし、それらは調性のある音楽を否定ないし破壊するというほど積極的なものではなく、むしろ消極的な脱調性の方向でのテクニックに過ぎなかったといえます。
しかし、シェーンベルクによる12音音楽の技法は、そうした意味で調性をまったく否定した音楽を書く方法でした。このシェーンベルクの方法は、弟子のウェーベルン(A. Webern、1883-1945)や歌劇《ヴォツェック》で知られるベルク(A. Berg、1885-1935)など、新ウィーン楽派とよばれた人々によって受け継がれていきます。

プロコフィエフ

(図=プロコフィエフ)

ロシアには五人組の後、グラズノフ(A.K. Glazunov、1865-1936)やラフマニノフ(S. Rakhmaninov、1873-1943)、スクリャビン(A.N. Skriabin、1872-1915)などが登場します。ロシア革命後は、プロコフィエフ(S. Prokofiev 、1891-1953)、ハチャトゥリャン(A.I. Khachaturian、1903-78)、カバレフスキー(D. Kabalevsky、1904-87)、ショスタコーヴィチ(D. Shostakovich、1906-75)などが出て、ソヴィエト時代の音楽を作り上げていきます。プロコフィエフはリムスキー=コルサコフに学んだ人ですが、急進的な作風で知られ、一時亡命しますが、1934年には帰国して、その後はソヴィエト政権の国策に沿った作品を書きました。ハチャトゥリャンにはバレエ音楽《ガイーヌ》があり、カバレフスキーはわかりやすい作風で知られます。また、ショスタコーヴィチは交響曲作家としての業績が認められます。

バルトーク

(図=バルトーク)

ハンガリーのバルトーク(、1881 -1945)も20世紀の音楽では重要な人物の1人ですが、その作曲活動が開始されるのは第1次大戦後のことです。ピアノ曲として知られる《ミクロコスモス》をはじめ、民族色の強い作品を遺しました。彼の作品にあらわれた原始的なリズムや、素朴な民謡的素材による強烈な個性あふれる作風には独特の雰囲気があり、特異な作曲家として位置づけられています。また、バルトークと同世代にはコダーイ(、1882-1967)がおり、歌劇と組曲のいずれもの《ハーリ・ヤーノシュ》がよく知られていますが、音楽教育面でも重要な業績を遺しました。

その他の国では、イギリスに印象主義的な作風で知られるディーリアス(F.Delius 、1862-1934)、ヴォーン=ウィリアムズ(R. Vaughan-Williams、1872-1958)、歌劇《ピーター・グライムズ》ほかの作品で知られるブリテン(B. Britten、1913-76)などがいます。イタリアでは、ピアニストとして知られ、バッハの作品を校訂したしたことで名高いブゾーニ(F. Busoni、1866-1924)やローマの3部作で有名なレスピーギ(O. Respighi、1879-1936)などが登場します。さらにその後の世代には、歌劇《スザンナの宝石》で知られるヴォルフ=フェラーリ(E. Wolf-Ferrari、1876-1948)がいます。

ガーシュイン

(図=ガーシュイン)

音楽的には後進国だったアメリカも、20世紀に入ると、自国の作曲家を輩出するようになります。ジャズ音楽との融合的な音楽で知られるガーシュイン(G. Gershwin、1898-1937)が出て、《ラプソディ・イン・ブルー》や歌劇《ポギーとベス》などの作品を発表します。そのほか、《大峡谷》のグローフェ(、1892-1972)、急進的なヴァレーズ(E. Varse、1885-1965)、チャンス・オペレーション(偶然性の音楽)で名高いケージ(J. Cage、1912-92)、最もアメリカ的な作曲家とされるコープランド(A. Copland、1900-90)、歌劇作品で知られるメノッティ(G.C.Menotti、1911-)などがいます。またメキシコではチャベス(、1899-1978)、ブラジルではヴィラ=ロボス(H. Villa-Lobos、1887-1959)などが活躍しました。

第2次大戦後になると、フランスのシェフェール(P. Schaeffer、1910-)によってミュージック・コンクレート(具体音楽)が、ついで、ドイツのシュトックハウゼン(K. Stockhausen、1928-)によって電子音楽が発表され、音楽がこれまでとはまったく違う素材によって作られるようになります。また、ギリシャのクセナキス(Y. Xenakis、1922-)はストカスティック(確率音楽)とよばれる数学的に作り上げる音楽を生み出しました。



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